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「ピカピカの1年生」…それは中学1年生 [あんなこと、こんなこと]

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あんなことこんなこと―8

「ピカピカの1年生」…それは中学1年生

中学生時代 1954~1956(S29-31)一①
  

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●標高300m。
 自然に囲まれた教育の理想郷・山本中学校(1956年、卒業記念アルバムより)

 戦後10年を迎えた中学生時代。ようやく世情も落ち着きを見せ、世の中は「もはや戦後ではない」を合言葉に米国依存から離れようという気運が高まっていました。それが中学生にも伝わったのか、民主主義教育の効果が現れたためか、みんな高い自主意識を持っていたと思います。
そのせいかどうか、中学時代の3年間は思いっきり反抗期でした。
 何しろ民主主義教育の第一期生ですから、理屈だけは一人前。父は封建制の権化、ということでことごとく反撥。歳の離れた兄たちにも反抗。言うことを聞かないから怒られる。怒られれば我を張ってますます言うことを聞かない。挙句の果ては家人と顔を合わせたくないから、何とか外に出る口実をつけて家には食事の時間にしか戻らないという毎日。村には遊ぶ場所もないけれど、とにかく家と離れていたかった。だから放課後はできるだけ帰りが遅くなるように、クラブ活動で小学時代の学芸会で病みつきになった演劇の真似事に明け暮れていました。
 そんな中学時代の大きなエポックは、1954(S54)年11月、町村合併により村が町に変わったことです。それまで新潟県古志郡山本村大字□□000番地と書いていた住所が、新潟県長岡市□□町000番地と短くなりました。村が町になった。それだけで何か新しい時代が始まるようなうれしい気持ちでした。

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●「山中坂(やまちゅうざか)」と呼ばれる山本中学校の通学路

●白線1本の学生帽が誇らしい
 
中学生になるとお下がりを着る必要がなくなりました。晴れて新調の学生服とセーラー服です。昭和15~16年生まれにとって「ピカピカの1年生」とは中学1年生のことでした。男子は白線が1本入った学生帽。でもその下は坊主頭です。足元は男女とも下駄履き。中学生になっても、冬でも靴下を履いた記憶はなく、学校では素足のままズック靴に履き替えます。教科書は毎晩明日の時間割に合わせて鞄に詰めますが、カバンは男女ともたいてい布製で、男子は手提げ形式か白い布製のたすき掛け。女子用では花柄の布袋に木の取っ手をつけたものなどもありました。 

●通学路がそのまま自然植物園
 母校・山本中学校は標高300メートルの山を切り拓いて作られています。この学校に近隣の8つの集落から生徒が通学してきます。県道脇の林の中に墓地があり、その前を通って山の上の学校まで、杉木立を縫って4~500メートルほどの通学路が続きます。住宅は少なく、ほとんど通学専用路。周囲は自然のままで、いろいろな草花が咲いています。その草木のふもとには、「マテバシイ・ブナ科」「ムクノキ・ニレ科」「ヤマウルシ・ウルシ科」など、先輩たちが設置した小さい立て札が立ててあり、毎日の登校・下校の際に自然に植物の名前を覚えられるようになっていました。学校ではこの登校路を「自然植物園」と呼んでいました。
  大きな曲がり角には私の大好きなネムの大木があって、初夏にはたくさんのピンクの花を咲かせました。森の木立の中ではいろいろな鳥の姿が見られましたし、冬には足跡を辿って林に入ると、白兎が姿を現したりしました。
 

●おかずはニシンの糠(ぬか)づけ、味噌汁の具には鯨肉
 新潟県といっても長岡は内陸部のため、普段の生活ではあまり新鮮な魚は食べられません。よく食べたのはニシンの糠(ぬか)づけ。かなりしょっぱくて、発酵のせいか喉がひりつくことがありました。また「さんま蒲焼」「さば味噌煮」「さば水煮」「くじら大和煮」などの缶詰もよく食べました。特に鯨は日常的な食品で、黒い皮がついた厚さ10センチもありそうな塩漬けの脂身を小さく刻んで味噌汁の具にしました。
 中学校でも給食はなく、弁当持参です。アルマイトの弁当箱に母が詰めてくれるおかずは、大抵、切り昆布の佃煮、鯛デンブ、まぐろの角煮やフレーク、ソーセージなどです。もちろん玉子焼きも。こうした庶民の食べ物が、今や高級食品に変わったことを思うと、隔世の感があります。
 食べ物でちょっと変わったところでは、父が田んぼの用水路で捕まえたなまずや八ツ目うなぎ、鯉や雷魚も食べました。噛み付いたら離さないといわれる雷魚は田んぼのあぜに穴を開けて水を流出させてしまうので困るのです。危険承知で捕まえた父は、少しでも家計と家族の栄養の足しにと考えたのでしょう。
 

●冬は大釜の出番。蒸気で蒸されたホカホカ弁当
 雪深い長岡では、冬、弁当はお昼までに冷え切って氷のように冷たくなります。そこはそれ雪国の知恵で、学校には大きなかまどを備えた1室があって、用務員さんがみんなの弁当を温めてくれるのです。生徒は登校するとまずその部屋に行き、用意されたすのこに自分の弁当箱を並べます。おかず入れが別になっている場合は弁当箱に重ねて置きます。かまどにはすでに火が入っていて、凍える身体で登校した生徒たちはホッとした気分になったものです。
 
すのこはクラス別になっていて、クラスは1年から3年までそれぞれABCの3クラスずつ。1クラスは大体40人で、1クラス分の弁当箱は1段のすのこに収まります。全校生徒で合計9段。授業が始まると用務員さんはそのすのこをヨイショと大釜の上に重ねます。天井に届きそうな高さです。
 
さて、待望のお弁当の時間。大釜のある部屋は蒸気でかすんでいます。二人の当番が自分のクラスのすのこを教室まで運んできます。みんな我先にと自分の弁当を取りに行きますが、よく蒸しあがった弁当はやけどしそうに熱くなっています。てんでにふたを開けたとたん、おかずの匂いが教室中に充満します。たくあんと納豆を混ぜたような複雑な匂い。こうして真冬の弁当は外が吹雪でもアツアツで戴くことができたのでした。
  ところで、大釜のすぐ上に置かれた弁当は熱いのですが、最上段ではさほど熱くなりません。そこで毎日すのこを置く段を決めるローテーションが組まれていました。

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●弁当を温めてもらった部屋によく似た部屋・特に土間部分(府中市郷土の森にて)


●この記事に関連して、ビデオサークル「月曜クラブ」会長の石原恙逸さんから下記のメールを頂きましたので、掲載させて頂きます。
石原さん、ありがとうございました。


いつもながらの素晴らしい思い出話感動しています。
私の小学校時代は戦時中でした。アルマイトの弁当箱に梅干一個だけでした。冬になると教室の隅に弁当を温める機械が置いてあり、登校するとすぐにそこに入れ、お昼に出して食べます。毎日梅干一個の日の丸弁当で、アルマイトの弁当箱のふたに梅干の置かれているところに穴が開いていました。
中学時代は終戦直後でした。学生服などありません。それでも父が古着屋を探し回り上着だけ買ってきてくれました。ズボンはありあわせのよれよれズボンでした。それでも嬉しくて小躍りしたものです。その頃、大変な食糧難で弁当は殆ど抜きでした。たまに大豆の炒ったものをポケットに入れて行き、授業中にポリポリとかじるか、サツマイモのふかしたものを2個ばかりかばんに入れて行き、やはり授業中に食べてしまったものです。毎日が空腹との戦いでした。
靴は当然のことながらありません。下駄履きでしたが、これがホウバの高下駄でそれをはいてカランコロンと音を立てながら歩くのがいかにも中学生と、誇りのようなものを感じていました。
中学3年を終え4年生になるときに新制高校に変わり、旧制中学生から新制高校生になりました。
                               石原 恙逸


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TAKA

こんばんは
sig さん が中学生の頃が、眼に浮かびます。
私の母親が、14年生まれですが、紙の靴だったと聞いています。
(ランドセルも確か...はっきり覚えていません。今度聞いておきます。)
現在の様に物がなんでもある時代ではなかった事を、何度も聞いて
いますが、こうしてsig さんのブログを読むと、聞いたことを
忘れてしまっていることに気付きます。これではいけないので、
もう一度、何かの機会に親父とお袋に聞いておこうと思います。
by TAKA (2008-05-06 00:53) 

sig

TAKAさん、いつもうれしいコメントありがとうございます。
ご両親が私と同世代ということで、とても親近感を覚えます。
この自分史ブログは、何も残すものが無い私が残せる唯一のものなので(笑)、思い出したことは何でも書いていくつもりです。
by sig (2008-05-06 11:37) 

puripuri

読んでいると懐かしい言葉がポンポンと出て来て嬉しくなりました。
長兄に疎開していた時の様子を訊いたことがあります。町育ちがド田舎に住み
学校へ山道をテクテクと歩いて行き、朝礼では倒れることもあったそうです。
じゃがいも、さつまいも、かぼちゃ等は嫌い?と訊くと、出されれば食べるけれど
好んで食べたくはないと。
そんな長兄ですが、いつでしたか自分史を書くと言ってましたが、どうなったのやら。
高校時代にアマチュア無線の北海道大会で一位になり、当時の新聞記事を探したりしていました。
by puripuri (2008-05-06 19:02) 

sig

puripuriさん、コメントありがとうございます。
疎開先でいつもいつも出される野菜にうんざりして、嫌いになってしまった話はよく聞きますね。
古い新聞記事を探しておられたお兄さん、その後自分史どうなったか、ぜひ確かめてみてください。妹さんが読みたいと言ったら、がんばって続けると思いますよ、絶対。
by sig (2008-05-06 19:46) 

sig

くらいふさん
いぬさん
xml_xslさん
yannさん
kemmさん
ChinchikoPapaさん
ねこじゃらんさん
tarouさん
もこもっとさん

みなさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
このブログは人生の半分以上を「昭和」で過ごした世代の思い出のよすがに、との考えで始めたもので、私と同世代の人たちしか興味を示してもらえないだろうと思っておりました。
けれども私たちよりはるかに若い世代の方たちにもご覧頂いているようで、これはうれしい誤算でした。
これまでは古い昔話が主でしたが、これから始めるカテゴリーもありますので、今後も時々お立寄りいただけたらうれしく存じます。
by sig (2008-08-16 23:26) 

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