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ローンウルフは北をめざす/1 [映画企画・間宮林蔵]

P1030925b-3.jpg    短期連載 時代劇映画企画
     「ローンウルフは北をめざす」(A loner) 
       
-Strait MAMIYA- 
               ①

北方 広域地図3.JPG
●日本における19世紀初頭の北辺の呼称

■企画意図

 時は幕末の動乱期を控えた江戸後期(19世紀初頭)。
 幕府はロシアの度重なる開国勧告に苦慮し、北辺の警備を強化するととともに、その境界を明確にする必要に迫られていた。
 当時日本はすでに千島列島のエトロフにまで足跡を印していたが、カラフトが陸続きか、あるいは島であるかは、世界地図上最後に残された謎だった。
 海外列強の干渉と新時代への胎動に揺らぐ日本にあって、わらじと毛布、最小限の計測器で、アイヌを供に、カラフト(樺太)西北部の不明地帯<未踏の100マイル>を極め、世界地図上に唯一日本人名を残した間宮林蔵。その背景にある先住民アイヌの姿と、北方領土を思う時忘れてはならない北辺地図製作のエピソードを追う。

◎鎖国政策に破綻をきたした日本(幕府)の動揺
◎先住民アイヌに対する和人の横暴
◎厳しくも美しい北辺の四季を背景とした、人の抗争と人間愛

◎組織の中で成功する生き方とは
 これは逆説的ないい方であって、間宮林蔵の行き方(Way)を必ずしも肯定するものではない。林蔵の努力と業績はすばらしいものであり
、偉業を成し遂げた点では偉人だが、大人物ではない。その意味でこの映画は偉人伝ではない。
 林蔵はむしろ人間的には極めて利己的。過剰なほどの自信家で、組織を自分の立身出世のために上手に利用して、彼なりの成功を収めた人物ではないか。
 林蔵の考え方や行動は、時に人の誰もが持つ身勝手さ、醜さを露呈する。そこに未完成な人間としての共感と面白さがあり、映画化の視点もそこにある。



■仕様
  ・35ミリ カラー シネマスコープ
     ・ランニングタイム 120分


■時代
  寛政11年(1799)~文化5年(1808)      
     林蔵がはじめて蝦夷の地を踏んでから、海峡横断まで


■舞台
  江戸 松前 函館 知床 宗谷 
     クナシリ エトロフ カラフト


■登場人物リスト

●間宮林蔵       25才~ 幕府測量方
●村上島之允(秦憶丸) 40才  蝦夷本島一周の上司  
                幕府蝦夷地・御用掛(ごようがかり)

●松田伝十郎      40才   カラフト探検の上司 
●伊能忠敬       56才  地理学者 測量家
●高橋景保(かげやす) 23才  幕府天文方(江戸詰)高橋至時の子

●バンナイ       20才  松前藩に雇われたアイヌの案内人
●ワッ力        18才  バンナイの恋人
●りき             林蔵の内妻


●川口陽助           エトロフの支配人
●山崎半蔵           宗谷警備津軽藩重役
●万四郎            シラヌシの番人


●ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・フヴォストフ  ロシア海軍大尉

●ガヴリエル・イヴァノヴィッチ・ダヴィドフ     ロシア海軍小尉

●ヤエンクルアイノ       名寄の酋長(楊忠貞の子)
●マウテカアイノ        エトロフの総乙名(酋長)
●ウトニシ           リョナイの酋長

●その他    松前藩重役    
        北方警備の南部・津軽藩兵
    
        アイヌの人々
    
        ロシア船乗組員

        ウィルタ人、スメレングル人、山靼人 多数

間宮林蔵.JPG●カラフト探検の間宮林蔵

※次回は主な登場人物を紹介します。

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ローンウルフは北をめざす/2 [映画企画・間宮林蔵]

P1030925b-3.jpg       短期連載 時代劇映画企画
     「ローンウルフは北をめざす」 
       
-Strait MAMIYA- 
               ②
間宮林蔵.JPG●間宮林蔵

■主な登場人物
●間宮林蔵  25才~ 幕府測量方
 
安政4年(1775)、常陸國筑波郡上平柳村の代々百姓の家系に生まれる。
 
幼少から機智に富み、大胆で負けず嫌いの性格が並み外れた努力と忍耐力を培い、後に間宮海峡発見という世界的快挙を成し遂げた。
 13才で地理学者・村上島之丞(幕府普請役)に見出されて弟子となり、15~16才で江戸に出て測量術や地図作成法を学び、その後島之丞の供で日本全域を巡回。
 
ペリーの黒船来航以来、北辺の黒船とも呼ばれるロシア軍艦のたび重なる来航で揺れる幕府の姿に、自分を生かす好機を読み取った林蔵は、<主君への忠義>を軸とした立身出世ではなく<自己の実現>へ。<武芸>ではなく<技術の錬磨>へと力を注いだ。
 
その起爆力となったもの。それは身分が低いことに対する劣等惑だった。それをバネに人一倍強い名誉欲が燃え上がり、人のやらないことを成し遂げて有名になりたいという功名心が募るのだった。

 日本周辺の未知の地形をこの脚と手で極めてみたい‥。この野望を個人で実現するには、まず通行手形。それに旅費、滞在費、測量道具など巨額な金がかかるだろう。しかし林蔵は官吏の身。通行は支障なく経費はすべて官費である。林蔵の脳裏には幕府の役人という立場を上手に活かして、自己の夢を実現させようという計算も細かく働いていた。
 このように非凡な才能を自覚していた林蔵は、自己実現のための固い信念を持っていたが、それは往々にして自己の過信につながり、利己的で尊大な態度をとることもあった。
 それは人間形成が未熟な若さからくるものではあったが、こうした考え方が、松田伝十郎との樺太行において、<師と仰ぐ人を乗り越えて行くことが、師の恩に報えることになるのだ>との勝手な理屈で、伝十郎を出し抜く行動を平気でとることになる。 
 しかし、難業の末、海峡を発見する過程で林蔵も人の和の尊さを知り、一回り大きな人間に成長していくのである。

 偉業達成後の林蔵について、その後の動向を伝える資料は極めて希薄である。官吏としての測量という仕事柄、引き続き全国各地を回って藩の情勢を探る幕府の隠密的な立場にあり、それなりの実績を挙げたと伝える向きもある。


●村上島之允(秦憶丸) 40才   蝦夷本島一周の上司
 
幕府蝦夷地・御用掛(ごようがかり)。学者肌で温厚な人物。
 林蔵が少年の頃、彼を見出し、江戸で地理学を教えた。
 林蔵とは大きく歳が離れていて、林蔵を弟のように思っているところがある。話の良く分かる上司であり、良きアドバイザーである。伊能忠敬と親交があり、林蔵を忠敬に引き合わせたのも島之丞である。
 学問に秀でた島之丞は情報にも長け、時代の流れを読む目を持っており、林蔵に自分の世界観を語るとともに、新しい時代の予感を告げる。林蔵の世界観と人生観に大きな影響を与えた人物である。


●松田伝十郎 40才   カラフト探検の上司
 
越後国出身。松前奉行・調役下役元締(しらべやくしたやくもとじめ)。
 寛政11年(1799)からの幕府の蝦夷地直轄に際して蝦夷地任務を志願。
 
性格は実直。名誉も出世も高望みせず、等身大で生きている好人物。
 豪放聶落で大酒飲み。しかし、肝腎な時には人が違ったかと思える程毅然とした態度でことに臨むことのできる冷静さと、人間味あふれる温厚さを持ち合わせている。
 林蔵とのカラフト行では、林蔵は東岸を主として徒歩で、伝十郎は西岸を船で北上することになる。
 林蔵は途中、徒歩での北上は困難との理由で西岸に戻り、急いで伝十郎の後を追うことになるのだが、伝十郎はそれまでにすでに、カラフトの北方・ラッカ(のちに間宮の瀬戸と呼ばれる間宮海峡)までを踏破し、カラフトが島であることはほぼ間違いない、との確信を持った。しかし確認したわけではない。
 ラッカで合流した林蔵にその点を詰問された伝十郎は、「是より奥へ一里なりとも参れば林蔵の手柄なり。何卒参り申すべし」と勧める。林蔵に名誉を譲るという大きな度量を持った人物である。(これぞ越後人の鑑なり)


●伊能忠敬 56才 地理学者
 
上総に生まれる。測量家、18才で下総佐原村の商家、伊能家の養子となり、村の名主として公益事業に尽力し、名字帯刀を許された。
 測量術を独習。隠居後50才で江戸に出て、幕府天文方・高橋至時(よしとき)の門に入り、暦学、天体観測術を修め、全国を巡って地図の作成に取り組んでいた。
 
特にこの時期、忠敬は日本全土の沿岸を実測しながら「大日本沿海與地全図(えんかいよちぜんず)」の作成に取りかかっており、その関係で箱館を訪れて林蔵に会う。
 忠敬は林蔵の一途な姿に打たれ、江戸に帰った後、遠く離れながらも、書状をもって新しい測量技術を伝え続けるのである。

伊能忠敬.JPG●伊能忠敬


●高橋景保(かげやす) 23歳 幕府天文方(江戸詰)
 
高橋至時の子。父のあとを継ぎ、幕府天文方を拝命。オランダ語に堪能で蘭学者としても天才的な才能を有している、謹厳実直な好青年。
 父と知己であった伊能忠敬とも親交があり、年下ながら天文やオランダ語に関しては忠敬の師でもあった。
 林蔵のカラフト探検を幕府に推挙したのは高橋景保だが、当時、景保は林蔵との面識が無いため、忠敬が景保に推薦したことを受けて幕府に取り継いだものと思われる。林蔵にとっては間接的な縁故就職といったところだろうか。

 当時、地図は第一級の軍事機密である。高橋景保は後に国禁を犯し、シーボルトに、ロシア提督クルーゼンシュテルンの航海記等と引き換えに、
伊能忠敬による日本図、林蔵らによる樺太図を贈ったいわゆるシーボルト事件で捕えられ獄死する。
 この事件は、シーボルトが間宮林蔵宛てにことの依頼をしたためて送った書状を、林蔵は官吏としての立場からそのまま幕府に提出したことによって露呈したと伝えられる。が、それは本編の埓外である。



●ニコライ・フヴォストフ  ロシア海軍大尉

●ガヴリエル・ダヴィドフ  ロシア海軍小尉
 当時ロシアは、皇帝の親書を携えた第1回遣日使節ラックスマン(1792)、第2回遣日使節レザノフ(1804)を蝦夷地に派遣し、開国と貿易を求めていたが、いずれも幕府の拒絶に遭い実現しなかった。
  そこでレザノフは、日本の開国は非常手段で…と日本北辺の襲撃を計画。自分が君臨している露米会社所属の軍艦をカラフトに派遣した。フヴォスドフとダヴィドフはその士官である。
 勇猛果敢なふたりの指揮で、ロシア兵はエトロフのシャナに上陸を敢行。日本の守備兵と、たまたまそこに滞在していた林蔵たちと戦火を交えることになる。

 この時の報復として日本は、その後訪れたゴローニンを幽閉。 ロシアはそのまた報復として高田屋嘉兵衛を拉致することになるのだが、それは本編の埓外である。


●バンナイ 
20才 松前藩に雇われたアイヌの案内人
 
西蝦夷・モンベツから和人商人によって拉致された母親と松前藩下級役人との間に生まれた混血の私生児。バンナイは父の顔を知らず、アイヌを搾取している和人に対して強い憤りを覚えている。

 林蔵のガイドになったのは生活のためであると同時に、北辺の防備についていると噂される父親探しの旅として好都合だったからだが、林蔵との行動を通じて次第にその使命の重さを自覚していく。



●ワッ力  
18才 バンナイの恋人
 
バンナイの愛を一直線に追い求め、激しい恋情を燃やす野生的なアイヌの美少女。バンナイとは幼なじみであり、両親共に認めている仲であったが、バンナイの旅立ちの意志の固いことを知ると、別れるに忍びず一行の後を追う。
 林蔵の内妻りきの“静”に対して“動”のタイプの女性である。


●りき      林蔵の内妻
 この時代に見られる女性の典型的なタイプで、林蔵に対しては献身的に尽くし、その見返りは全く期待していない。いわば良妻賢母を絵に書いたような女性。林蔵の理想の実現を陰から支えていることに喜びを感じている。
 事実、林蔵のわがままを広い心で包んでくれるのはりきであるし、林蔵が困難に遭遇した時に思い出すのも、決まってりきの姿である。江戸以外は知らず、探検に明け暮れる林蔵との生活も年間数えるほどの日数だったが、終生、内妻の立場に甘んじた女性である。

※次回からは数回にわたり「梗概(あらすじ)」を掲載します。

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ローンウルフは北をめざす/3 [映画企画・間宮林蔵]

P1030925b-3.jpg        短期連載 時代劇映画企画
     「ローンウルフは北をめざす」 
       
-Strait MAMIYA- 
              ③
IMGP9326.JPG
●福山(松前)城下 「蝦夷福山屏風」部分 

松前藩主に拝謁.JPG
●福山城(松前城)に貢物を持参したアイヌの乙名(オトナ=酋長)たち
 鷹、鶴二羽、アザラシとラッコの毛皮、干したサケなどが描かれている。



●シノプシス(梗概/あらすじ)


1.プロローグ

 寛政11年(1799)春。間宮林蔵は津軽海峡を北上する船上にあった。同行者は蝦夷地御用掛(ごようがかり)村上島之允。数理に祥しい林蔵は、島之允の推挙で、幕府の第三次蝦夷地調査に手附として参加することになったのである。
 夢にまで見た蝦夷地を眼前にして、林蔵の心は思わず引き締まった。
 

  当時、蝦夷地は北辺の黒船と騒がれたロシアの軍艦の出没におびえていた。
老中松平定信の元、遅まきながら北方監理と警備の必要性を感じた幕府は、若輩ながら天体や地理に詳しい天文方・高橋景保に命じて、天明5年(1785)より蝦夷地調査を実施。景保は日本で呼ぶカラフトと外国で言うサガリン(サハリン)は同じものではないかと推測していた。
 地理地形を測るための先達はすでに蝦夷ヶ千島(千島)、奥蝦夷(カラフト)まで足跡を印し、林蔵が蝦夷へ渡る前年には、近藤重蔵、最上徳内らがエトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱を建て、クナシリ、ウルップには島之允も同行していた。
 
北方 広域地図3.JPG

2.蝦夷地にて                                    「江戸にもない」と謳われた松前城下のにぎわいは目を見張るものがあった。松前藩は数字に無知なアイヌをごまかして重税を課す経営政策で繁栄を築いているのだった。<このことは江戸表に知られてはまずい>。彼らは幕府から派遣された林蔵の口から搾取隠しが江戸表に伝わることを警戒し、蝦夷地調査の妨害を考えていた。

IMGP9319b.JPG●福山城(松前城)
IMGP9317.JPG
●「蝦夷福山屏風」六双の左部分

 林蔵らは、蝦夷地探索の案内人として優秀なアイヌが必要だった。蝦夷の地理地形、自然環境を良く知り、勇敢で健康的な若者である。城下で探し出したバンナイというアイヌ青年は、西蝦夷モンベツから和人商人によって拉致された母親と、松前藩下級役人との間に生まれた混血児だった。彼は心のうちで和人に対して激しい敵意を抱きながらも、林蔵らに従うことになった。こうして一同は箱館の北、一ノ渡しに蝦夷地探索の拠点を構えた。

  林蔵の日課は、もっぱら島之允から蝦夷地の概念や測量術を教わること。それに、バンナイを相手にアイヌ語を覚えることだった。バンナイの傍らには、はるばる松前の地から彼を追って来た美しいメノコ、ワッカの姿があった。     

 この年の秋、島之允の元へ一人の初老の男が訪れた。この人こそ、後に初めて正確な蝦夷沿岸地図をまとめあげる伊能忠敬その人だった。彼は幕府の命で蝦夷地の東南岸を測量するためにやって来て立ち寄ったのだが、図らずも林蔵との歴史的な対面となる。
 
忠敬は林蔵に西蝦夷沿岸の正確な実測を託す代わりに、新式の羅針儀による最新の測量法を教える。忠敬は林蔵の申し出た師弟の契りを快く受けると、「世界地図上ただ一箇所残されたカラフト西北の空白部を、ぜひそなたの手で埋めて欲しい」と頼み、同行の人々と共に去っていった。

伊能忠敬.JPG
●伊能忠敬(上)と「大日本沿海與地全図」の東日本部分(下)
 海岸線を実際に歩いて作り上げたものだが、現在の地図と変らない精緻さをもつ。

「大日本沿海與地全図」文政4 1821.jpg
象限儀.JPG量程車.JPG
●天体の高さを測る象限儀   ●歩いて距離を測る量程車
 
北斎「地方測量之図」右下部分.JPG 北斎「地方測量之図」左下部分.JPG
●江戸時代後期、葛飾北斎の描いた「地方測量之図」(部分) 

3.旅立ち
 一見順調な蝦夷本島一周の準備期開。しかし、そこでも松前藩の妨害があった。
 ある夜、林蔵らは藩兵の襲撃を受ける。その時敵意を満面に表して林蔵らを救ったのはバンナイだった
。<もう松前へは戻れない。藩兵の追跡を避けるためにも林蔵らと運命を共にしよう。もしかして母と自分を捨てた和人の父に会えるかもしれない>。バンナイの心は決まった。
 こうしてバンナイはワッカに心を残しながら、一行と共に蝦夷本島(北海道)一周の旅に出発した。 
 必死にバンナイの後を追うワッカ、それは女一人の危険な旅だったが、一途な彼女には恐れるものは何もなかった。
 

 一行の行く手には鬱蒼とした原生林が広がっていた。断崖がそそり立つエリモ岬を過ぎると、そこはもう松前藩の手の届かない辺境の地だった。
 彼らは途中、熊に襲われたりしながら、処々にあるアイヌ部落に宿を借り、その生活をつぷさに観察しながら東への道を急いだ。 

一般的な家屋2種.JPG
IMGP9307.JPG●アイヌの家屋 上右の建物は倉庫

地名入り 1.JPG

 今、シリエトク(知床)の海岸に立つ林蔵の目の前には、クナシリの巨大な島影が横たわっている。<先達に負けてなるものか。追い着き、追い抜<のだ>。心の中で固く決意する林蔵だった。
 オホツコイ(オホーツク)に続くと言われる大海を右手に見ながら、なだらかな海岸線を北上した一行は、蝦夷本島最北の地ソウヤに到着した。海峡を隔てた北にある遥かな奥蝦夷(樺太)の島影を臨んで、林蔵は感無量だった。

 当時カラフトは世界の探検家の間でも、<大陸と陸続きの半島か、それとも島か>
に議論が分かれていた。特に海上は北極海方面にしか出口を持たないロシアにとって、東のオホーツク海から直ちに日本海に到達できるルートがあれば願っても無いことだった。ロシアに限らず列強各国は、主に植民地政策、軍事的観点、交易面からその解明を急いでいるのだった。

ロシアと日本の位置関係-2.jpg

 先達もいまだにカラフトの全容を掴んでいない。それまでの調査で島説が有力だったが、この未知の大陸は林蔵の心を大きく揺り動かした。<カラフトこそ先達を抜き、名を挙げる唯一の舞台だ。いずれこの足で…>、林蔵の闘志は燃え盛った。

IMGP9296.JPG
●西蝦夷/オロフレ峠

 とにかく彼は、まず忠敬との約束を果たさねばならなかった。測量を続けながら蝦夷西岸を南下しつつ、林蔵の頭の中はカラフトのことで一杯だった。
 こうして4ヵ月にわたる蝦夷本島一周の測量を終えた林蔵は、日高のシツナイ(静内)に戻り、直ちに忠敬に詳細な地図を送った。これが蝦夷本島部分が未完成のままだった忠敬の「大日本沿海輿地全図」の完成に大いに寄与するのである。

 シツナイにはバンナイを追ってきていたワッカが待っていた。二人の再会を喜ぶ姿を見て、林蔵もふと江戸に残した内妻りきを想い浮かべるのだった。<おれは生来の放浪者だ。妻は要らない>という林蔵に、りきは献身的な愛を捧げ、戻る当てのない林蔵を待ち続けているのだった。

 その頃林蔵は箱館奉行の請負役雇に昇格していた。しかし林蔵には遅く感じられた昇格だった。
 そもそも林蔵は百姓の家系から取り立てられたとはいえ、単なる下っ端官吏では間尺に合わないと思い始めていた。<仲間に迎合しながらの仕事は性に合わない。しかし、自分がリーダーで進める測量はきらいではない。このたびも大きな成果を挙げているはずだ。それに対する江戸表の評価は不十分だ>。林蔵の強い名誉欲はかえって大きな不満となって心の底にわだかまった。
                       
次回につづく

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ローンウルフは北をめざす/4 [映画企画・間宮林蔵]

P1030925b-3.jpg       短期連載 時代劇映画企画
    「ローンウルフは北をめざす」 
         -Strait MAMIYA- 
               ④
くらしの様子.JPG●アイヌのくらしIMGP9314.JPG
●役人をもてなすアイヌの人たち


●シノプシス(梗概/あらすじ)

.エトロフ島勇猛潭
  <カラフトにぜひ行かせて欲しい>。
   かねがね島之丞に頼んでいた林蔵に下った幕府の命は、天文地理掛として、クナシリ、エトロフの実測だった。内心不本意ながら一応幕府の測量士として一人立ちした林蔵は、島之丞、バンナイと別れてクナシリの実測を終え、エトロフに渡った。文化4年(1807)のことである。

  この年3月。幕府は、東蝦夷、北蝦夷(樺太)とともに松前藩に委ねていた西蝦夷地をも直轄とし、箱館(現在の函館)奉行を松前に移し松前奉行と改称。併せて天文方の高橋景保に第四次樺太探検の実施を指示し、万国地図(世界図)の完成を急がせた。
  北極南極の両極を除いて世界地図上に最後に残された不明地帯……それがカラフト北西部であり、幕府としては隣国・清との国境も把握する必要があったのである。
 

 林蔵が拠点としたエトロフの中心地シャナには南部藩、津軽藩の陣屋があり、300人が滞在して防備していた。隣島ウルップには享和元年(1801)、すでに富山元十郎らにより「天長地久大日本属島」の標柱が建てられていたが、今では赤人と呼ぶロシア人が60人も入植していた。いわばエトロフは千島最北端の日本領土だった。

地名入り 1.JPG

 
 ロシアの軍艦2隻がシャナの沖合いに姿を現したのはその矢先のことである。
 寛政4年(1792)、文化元年(1804・下図参照)と二度にわたって通商を求めるために派遣した使節を幕府からむげに断られたロシアは、非常手段として威嚇のために、海軍大尉フヴォストフと同少尉ダヴィドフを差し向けたのである。
  彼らは砲撃を加えながらナイホに焼き討ちを加えると、海岸伝いに軍艦をめぐらし、シャナヘ迫った。

1804 レザノフ来航.JPG
●参考図/1804 長崎に来航したロシア使節レザノフの軍艦ナデジュダ号(中央)

  シャナには戸田又太夫、関谷茂八郎両責任者を筆頭に、津軽、南部藩兵が篭城。いよいよ上陸しようとするロシア兵を迎え討とうとしたが、先方の大砲、小銃に対して武器の不備のために抗し得ず、ひとまず立ち退こうと評定した。
  血気にはやる林蔵は「立ち退くとは何事か」と奮戦したが、多勢に無勢。一同は山越えして退くことになった。林蔵の気持ちは収まらず、又太夫の責任を厳しく糾弾。又太夫は責任をとって自害した。
  他の幕吏たちは事の次第を箱館に注進するとの名目でエトロフを去ったが、林蔵は「オロシャ(ロシア)の狼藉を見届ける」とがんばり、その地に残った。

 
 この事件は林蔵の虚栄心と名誉欲を大いに満たすものだった。<これで間宮林蔵は文武両道と、俺の名声も上がることだろう>。林蔵は早速自分の武勇談を、忠敬とりきへの書状にしたためた。箱館からの詳報が江戸へ届いた頃、林蔵の思惑通り彼の評判は大変なものだった。
 
 
 しかし、それを虚勢とみて喜ばない者がいた。忠敬と景保、それに内妻のりきであった。彼らは林蔵の軽薄な功名心を見抜き、眉を曇らせた。
  特にりきは江戸にいた頃の林蔵を良く知っている。「自分が正義だ」との信念で何でも先頭に立ちたがり、強情で強引。己を押さえることのできない一途な性格は仲間から敬遠され、彼を孤立させていた。

  人と溶け合えない・・・なぜだ。この焦燥が苦い劣等感として林蔵の心を苛んだ。<おれは孤独で結構。個を生かせる測量の才覚は正に天が与えたものに違いない。きっと有名になって仲間を見返してやる>。林蔵はそう心に誓うのだった。

5.カラフト行前夜
  その頃江戸では、高橋景保が第四次樺太調査の人選に当たっていた。忠敬から林蔵の才覚を聞き及び、今またエトロフ島武勇談を伝え聞き、その飽くことを知らぬ行動力に大きな期待を抱いた景保は、新たな樺太探検に、迷わず林蔵を推挙した。<彼ならできる。彼ならきっとやり遂げてくれるだろう>。
  忠敬から聞くだけで一面識もない林蔵を信用し、彼は学者としての生命を賭けたのである。

北方 広域地図3.JPG

 
 こうしてかねてからの林蔵の念願は、思わぬところから転がり込んで来た。しかし同行者はエトロフで越年した経験を持つ蝦夷探検の大ベテラン、調役下役元締・松田伝十郎と聞くと林蔵の心は曇った。<これだけの実績を積んだこの俺が、今更従者とは…-->。
  とは言っても、未知の領域を極める願っても無い機会が降って湧いたのだ。<これは自分の技量が買われている証拠。チャンスがあれば伝十郎を差し置いてでも……>との不遜な心を片隅に、強い意欲が湧くのを覚えると、早速彼は、以前忠敬の説明を聞いた時から欲しいと思っていた新式の羅針儀をぜひ譲ってほしいと江戸の忠敬に使いを立てると共に、数年前苦楽を共にしたパンナイの姿を求めた。

 
 バンナイは川筋の小屋にワッカと住み、サケ漁の仕事に携わっていた。二人だけの平穏な生活は林蔵の来訪によって破られた。ワッカは不吉なものを感じたが、熱心に頼む林蔵に心を動かされたバンナイは、「幸せな家庭を奪わないで…」と追いすがるワッカを振り切って林蔵の後を追うのだった。

マレプでサケを突く.JPG
●アイヌのサケ漁

  ソウヤで林蔵が初めて会ったその男は、豪放磊落、大酒飲みで、緻密な測量を続けながらカラフトの奥地を極める難事業に同行するには、はなはだ頼りなげに映った。
  ソウヤはカラフト南端のシラヌシと海上八里を隔てて相対する蝦夷本島最北端の要地で、津軽薄重役山崎半蔵のもと200名の藩兵が警備を固め、蝦夷探検のベテラン最上徳内、深山宇平太と共に警備兵所轄の筆頭にあったのが松田伝十郎だった。この時林蔵34才。伝十郎40才。

  
二人は早速カラフト探検の準備に取りかかった。小舟の手配、糧食の調達など、バンナイの働きは大いに役立った。服装については、徳内、宇平太とも協議し、結局幕府の役目を明確にするため役人の格好で行くことに決まった。 伝十郎の仕事に対する姿勢は、平常とは打って変わって厳しいものだった。林蔵はその姿に密かに畏怖の念を抱くのだった。

  いよいよ出発の日がやってきた。伝十郎は「死を決して奥地に至るべし。もし帰らざる時はソウヤ出船の日を忌日と定むべし」と決意を述べ、林蔵は「成功のかたち立たざるうちは死を誓って帰るまじ」と志を伝えて、バンナイと共に船に乗り込んだ。
 忠敬からの羅針儀が届いたのは、正にその時だった。         

伊能忠敬.JPG 間宮林蔵.JPG
●伊能忠敬                  ●間宮林蔵

梗概・つづく

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ローンウルフは北をめざす/5 [映画企画・間宮林蔵]

P1030925b-3.jpg       短期連載 時代劇映画企画
          
「ローンウルフは北をめざす」 
               -Strait MAMIYA- 
                    ⑤
IMGP9292.JPG ●ナナカマド(だと思う)

●シノプシス(梗概/あらすじ)

6.カラフト探検レース
 松田伝十郎、間宮林蔵、バンナイ。三人を乗せた図合船は順風に送られてカラフト南端のシラヌシに到着。初めて見る異郷の山並みに、二人は決意を新らたにした。これから人跡まれなこの極寒の地に、往復500里もの難業が始まるのだ。
 
林蔵は、できれば最初から一人で踏査したかった。それに、伝十郎には何かしら息詰まる威圧感がある。自分に無い何かが林蔵の心の奥を打つのである。
 そこで林蔵は、東岸と西岸に別れて北上することを提案した。カラフトがもし島ならば北のどこかで出会うことになるはずである。伝十郎もその方が能率が上がると快諾し、林蔵は東岸を選んだ。
 こうして二人は別々に行動することとし、林蔵はシラヌシに用向きのある伝十郎より一足早くバンナイを伴って出発した。文化5年(1818)4月17日のことである。 

 幕府が本格的にカラフト調査に着手したのは天明5年(
1785)である。大石逸平は西岸をナヨロ(北緯48度弱)まで探検。寛政2年(1790)、松前藩士高橋清左衛門は西岸コタントル、東岸シレトコに至り、南端シラヌシに交易所、東岸クシュンコタンと西岸トンナイに番屋を設けた。
 更に寛政4年(1792)、第二次樺太調査で最上徳内は西岸クシュンナイ、東岸トウフツまでを踏査。
 寛政10年(1798)の第三次調査では中村小市郎、高橋次太夫が東岸ナエフツ、西岸ショウヤまでを踏査していた。この次太夫らが到達したショウヤ(北緯50度辺)が、これまでにいわゆる和人が足跡を印した最北地点だった。カラフトの北半分については全く知られていなかったのである。


林蔵樺太旅程図.JPG

東岸を北上する林蔵にとっては、次太夫らが到達したナエフツ(北緯47度30分辺)が事実上の出発点だった。西岸をとればショウヤ以北の北緯50度以上の業績しか得られない。しかし、東岸をとればもっと大きな功績となるのだ。林蔵が東岸を選んだ理由は実はそこにあった。 
 林蔵はアイヌのチップ(丸木舟)でアニワ湾を北上。クシュンコタンからは陸路をとった。原生林の中は熊笹を掻き分けて舟を引き、沼を渡り、川を遡って北上を急いだ。ナエフツに着いたのはシラヌシを出てから半月後の5月2日だった。


伝十郎が、シラヌシの番人万四郎の案内でアイヌを連れて出発したのはその当日だった。図合船で追い風に任せて西岸を一気に北上。2日後にトンナイ着。トンナイは和人の建てた漁場の番屋や倉庫などがあるアイヌ部落である。伝十郎はそこで更にアイヌ人を補充し、隊を整えて再び出発した。


カラフト南部.JPG

陸路をとる林蔵の前には、果てしない原生林が立ちふさかっていた。その上測量を続けながら進む旅である。ともすると焦りが顔面に現れ、バンナイに叱責の声が飛んだ。しかしバンナイは黙々と耐えていた。今に分かる時が来る。北辺の過酷な自然に耐えられるのはアイヌだけなのだ>。

  北上していた道がいつの問にか東行の道程に変わった。海岸線は大きく東南へ回り込み、どうやら大きな湾を形成しているようだった。
 やがて林蔵らは湾につながるタライカ湖畔に出た。そこにはアイヌの家並みとは異るひとつの部落があった。服装も違う。バンナイの通辞で、彼等はウィルタ人。この地はタライカと呼び、部落の入口にある女真文字の標柱は満州の役人が建てたもので、ウィルタの人たちはこの地で獲れるテンやキツネなどの毛皮を朝貢しているという。林蔵はすでに清国の勢力がここまで迫っていることに戦慄を覚えた。
 

女真文字.jpg●女真文字の例 Wikipedeaより

同じ頃伝十郎は、ナヨロで女真文字を見た。カラフトの南端シラヌシより67里のこの地の酋長ヤエンクルアイノは、清国よりハラダ(族長)に任命され、揚氏と中国風の名も授かっていた。
 海岸が賑わい、図合船に毛皮や干魚などが積荷されている。日和を待って満洲へ朝貢に行くのだという。ここで伝十郎は、更に北に満洲への通路があることを聞いた。
 
 当時ヨーロッパの世界図では、形も覚束ないカラフトの北に更に島が描かれ、サガリンと記されていた。わが国ではヨーロッパに先駆けて、カラフトとサガリンは同一であるらしいという考え方が江戸の高橋景保らによって固まっていたが、実際に確かめた者はもちろん無かった。<それを確認できるかもしれない>。伝十郎の心は踊った。

更に東行を続けた林蔵は、大洋に細長く突き出した北シレトコ岬の根元に到達した。そこはシャックコタンと呼ばれ、そこから北シレトコ岬までは延々と南下が続く。
 林蔵の使命はあくまでも実測である。羅針儀は忠敬から譲り受けた地平儀ただ一つ。あとは水準器、望遠鏡、天測計、振子時計、量程車、間縄で測量しながら陸路を行かねばならない。
 このまま東岸の測量を続けて行ったら完全に伝十郎に先を越されてしまう。林蔵は焦った。<シャックコタンから西岸のリョナイに出て伝十郎を追おう>。林蔵は決意した。しかし行く手には険しい山脈が聳え立っている。横断は不可能だ。<引き返すのだ。それしかない>。

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●蝦夷の原生林

   東岸と西岸の最も狭まった地点はマーヌイである、そこからなら西岸のナヨロまでは山越えしてわずか3、4里。しかし、20日近くも前に通ったところである。距離的にもこれまで踏査した半分、50里程を戻ることになるのだ。それは大変な決断だった。<測量は済んでいる。ひたすら歩けばそれほど日数はかかるまい>。そう自分を鼓舞し、林蔵はバンナイを叱咤しながら急がせた。


その頃伝十郎は、既に先人・高橋次太夫が踏査した北限を越え、シラヌシより123里のポロコタンに達していた。北緯50度を越えた樺太の中間地点である。
   すでに樺太アイヌの北限を過ぎ、ウィルタ人の土地である。ここから先は図体の大きい図合船では着船する場所が無いと聞き、チップを借り受けて新しい隊編成のもとに出発した。
 
 そこは既に享和2年(1802)、フランス人ラ・ぺルーズが探検し命名した韃靼(タタール/シベリア)海峡の奥である。穏やかな海上を、伝十郎の乗った舟は滑るように進んだ。


林蔵らがようやく西海岸のナヨロに辿り着いたのはその頃であった。ヤエンクルアイノの話では、伝十郎は既に半月も前にナヨロを発ったという。
  <伝十郎は今頃すでに、カラフトの最北端に至っているのではないか。あるいは山靼と満洲との地境を見極めてしまっているかも知れない。急がねば>。彼ははやる気持ちをやっとの思いで押さえながら北上を急いだ。


カラフト北部.JPG

一方伝十郎は、シラヌシから170里を経るノテトに到達した。ここは山靼風俗化したシルングル人、スメレングル人の混在地域である。彼らは伝十郎の異様な姿を見て警戒したが、沈着冷静で好感の持てる伝十郎の人間的魅力はほどなく彼等の警戒心を解き、しばらく滞在して林蔵を待つことに決めた伝十郎に、何くれとなく便宜を図ってくれるようになつた。

 
 部落で見かけた弁髪の一団は山靼人で、シラヌシヘ交易に行くらしい。松前で見かけた山靼織物や錦、飾り玉などは、こうして山靼からアイヌの手を経てもたらされたものに違いない。幕府の目の届かない蝦夷本島では、利に聡い商人らが一早くこれらの品やアイヌの産物に目を付け、抜荷(密貿易)がひんぱんに行われているという話はあながち噂ぱかりとは限らない、と伝十郎は思った。

  ノテ卜で10日ぱかり林蔵を待った伝十郎は、何ら消息が届かないので、わずか一泊の行程と聞き、北のラッ力ヘ足を延ぱした。
 海峡は狭く、向かいに望まれる山靼の大陸は、浅い海道を隔ててわずか4里ばかり。はるか北方にはマンゴー河(黒竜江/アムール川)と思われる広い河口も望見された。また、6日ばかり北航すればカラフトの最北端を回って東岸に出られると現地人から聞いた伝十郎はハタと膝を打った。<カラフト離島に相違なし。日清両国の地境を見極めたり>。
 林蔵がノテトに到着したのは、その翌日だった。


ノテト ラッカ-2.JPG
●世界地図上最後に残されたカラフト北西部(右)と、左は山靻(シベリア)

  ノテトに戻った伝十郎は、林蔵との無事再会を喜び合った。しかし、ラッカで望見した所感を伝十郎から聞くと、林蔵の心は曇った。<やはり伝十郎に先を越されたか。だが、眺めただけでは確認したことにはならない。カラフト離島発見の栄光への道はまだ残されている>。林蔵は「自分もぜひ見分したい」と申し出ると、伝十郎は同行を快諾した。

  ラッカで山靼の大陸を目の前にした林蔵は、心の動揺を抑えることができなかった。<伝十郎がここまで来たのなら、俺は山靼にまで渡ってやる>。
  伝十郎はそうした林蔵の心の内を読んでいた。<探検家として名誉を独り占めにはすまい。それが志を同じくする者への情だ>。そう考えた伝十郎は、「これより奥へ一里なりとも参れば林蔵の手柄なり。何とぞ参り申すべし」と勧めるのだった。
  しかし、林蔵といえどもさすがに上司を目の前で出し抜くことは出来なかった。林蔵は心を残しながら、伝十郎と共にソウヤヘの帰途に着いたのである。 時は6月26日、最北の地にもようやく遅くて短い春が訪れた頃であった。


  
100日にも及ぶ長旅を終えソウヤに着いた伝十郎は、早速報告のため松前に向かった。
林蔵はソウヤに留まった。彼の脳裏にはまだ見ぬ山靼の姿が渦巻いていた。
  <それにしても伝十郎は人物だ。かなわぬ>。彼のこれまでの行動を支えていた過剰なまでの自信が揺らぐのを覚えると、林蔵はいまいましそうに首を振り、急いでそれを打ち消した。
  <いやいや、師と仰ぐ人を乗り越えていくことこそが、師の恩に報いることではないか。必ず伝十郎以上の功績を立ててやる>。
  相変わらずの理屈で自分の考えを正当化しながらも、自分本位の一轍で通して来た林蔵の中に、何かが芽生えはじめていた。

 
 林蔵は早速江戸の景保に宛て、カラフトの略図を添えた書状を送ると同時に、松前奉行への報告書を作成した。それには別状で、カラフト再調査の申し出が添えられていた。
  許可はすぐに下りた。<俺の生き甲斐は冒険だ。俺は自分の選んだ道を生きるのだ。ありがたいことに、幕府が俺の夢の実現を手助けしてくれているではないか>。
  使命の重さと同時に林蔵は、窮屈に感じていた体制や組織の中で、前向きに生きようとしている自分を感じるのだった。同時に彼は、りきに対してこれまで何程のことをして上げただろうかと思い巡らしていた。遠く離れて初めて知るりきの優しさ、恋しさだった。

梗概・次回完結

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