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ローンウルフは北をめざす/6 最終回 [映画企画・間宮林蔵]

P1030925b-3.jpg          短期連載 時代劇映画企画        
     「ローンウルフは北をめざす」
 
                -Strait MAMIYA- 
                          ⑥/最終回
間宮海峡 北西を上にしてb-2.JPG
●手前/カラフト北西部 海峡の対岸は山靼(シベリア)

●シノプシス(梗概/あらすじ)

8.再挑戦
  わずか20日の滞留ののち、林蔵は再びバンナイを伴ってソウヤを出発した。文化5年(1808)7月13日のことである。
  目的は一つ。今度こそカラフトが離島であることを確認するためである。
  北辺の夏は短い。彼は6人のアイヌと共に、かつて知った西岸伝いにチップで一気に北上した。 
 

IMGP9330.JPG
教育図書出版/山田書院の書籍より

  山靼人の襲撃を受けたのは、リョナイの沖合をチップで航行している時であった。岬の陰から現れた山靼舟が弓矢を射掛けて来たのだ。敵は数十人。度重なる和人の出没に対する威嚇と、抜荷の発覚を恐れるためだった。
  山靼舟とチップではチップの方が小回りが効く。力を合わせて漕ぎ回りながら射掛けるアイヌの矢に、山靼人たちはたじたじとなり、帆を上げて洋上に逃れ去った。 
  しかし、山靼人の復讐を恐れるアイヌたちは、それ以上の北進を頑として拒んだ。それを懐柔してくれたのはバンナイだった。すでに8月も終わりに近づき、寒気が寄せて来る頃になっていた。

カラフト北部.jpg
●カラフト北部

  北緯50度を越え、トッショカウに至った時は既に9月3日。山靼人の地域でもあり、とうとうアイヌたちの中から逃亡する者も現れた。林蔵は仕方なく北進を留まり、リョナイに引き返さざるをえなかった。
  リョナイの酋長ウトニシは協力的だった。彼等は横暴な山靼人を快く思っていなかったからである。ウトニシは、雪で閉ざされた陸路を往くよりも海上の氷結を待って、氷上を北進する方策を勧めた。しかし林蔵は待つ時間が惜しかった。折から降りしきる雪をついて北進を始めた。

  北辺の冬の厳しさは想像を絶するものがあった。一行を吹雪が襲い、飢えが忍び寄った。
 この極限の中で、幕吏という身分など何ほどのものであろうか。
 <人の本当の値打ちは位階ではない。無冠でこそ計られるものではないか。思えば前の旅では、アイヌたちに自分は心を開いていなかった。バンナイに対してさえ、自分は和人で幕吏であるという態度をとり続けて来た。だが今は違う。目的を一つにして苦楽を共にする同志ではないか。俺達は同じラッコの生肉を分け合う同志なのだ>。
 そう思ったとき林蔵は、自分の心がはじめてアイヌたちと一つに溶け合うのを感じた。殺伐とした雪原の中で林蔵はバンナイの境遇を知り、ワッ力への愛の深さに暖かさを感じるのだった。林蔵もふと、暖かい江戸に想いを駆せ、りきとの平和な日々を脳裏に想い浮かべた。 

北方 広域地図3.JPG

  林蔵の無事の帰着を待ちわびているのは、りき一人ではなかった。彼の書状で、自説の樺太離島の意を強めた高橋景保は、一心に日本辺海略図の作成を急いでいた。しかし、カラフト北西部は未だ空白である。彼はその部分を仮想し、点線で書き込んだ、景保はこのたびの林蔵の再踏査で、一日も早くその個所を実線でつなげたかったのである。 

  風はいよいよ強く、雪はいよいよ深かった。そして氷結が始まった。林蔵はウトニシの勧めに従い、陸地伝いに氷上を北上することにした。
  彼等を待ち受けているものは、絶望と死だけだった。氷塊は行く手を阻み、そりは遅々として進まなかった。ブリザードが襲い、林蔵の手足は凍傷に痛めつけられていた。氷原は生命を持つかのように変幻し、巨大なクレバスが走った。
 
  林蔵の支えは、今ではすっかり打ち解けて彼を励ましてくれるバンナイの存在であり、江戸に残したりきの笑顔であった。そして何よりも、自分が選んだ目標に対する執着心と、必ずなし遂げてみせると自己に課した厳しい信念だった。

ノテト ラッカ.JPG
●ヨーロッパで「未踏の100マイル」と呼ばれたカラフト北西部の海岸線
 この狭隘な海峡が、のちにシーボルトにより Strait MAMIYA (間宮海峡)と名づけられる。

間宮海峡 北西を上にして.JPG

  やがて濃霧の中に初めて眼にする部落が現れた。そこはカラフト最北端に近い北緯53度15分に位置するナニオーだった。 
  霧が晴れ、西に韃靼の大陸を望む海峡の全貌が眼前に広がった。<やった!>。とうとう成し遂げたのだ。世界地図上に残された唯一の空白地帯、前人未踏の100マイルを、今渡り終えたのだ。
  海上を埋め尽くしていた氷は薄い氷片となり、もうもうと水蒸気を上げている。陽炎に遠く揺らぐ山靼の山々……。その姿がいつの間にか忍び寄っていた春の息吹を伝えていた。

『字幕』
  翌、文化6年(1809)5月。間宮林蔵は更に海峡の対岸、黒竜江河口のデレンから川を遡り、満州仮府に到達し、清国役人と会見。 
   オランダ人シーボルトは「シーボルト事件」で国外追放となったあと、著書「ニッポン」で、海峡の発見は学問上の大発見なりと間宮林蔵を讃え、高橋景保がまとめ上げた「日本辺海略図」の中に<Strait MAMIYA>と記入した。
                                           
1809 高橋景保「日本辺海略図」Strait Mamiya.JPG
●間宮林蔵の報告を得て高橋景保がまとめ上げた「日本辺海略図」 1809

「参考資料j
●洞  富雄著 「人物叢書44 開宮林蔵」 吉川弘文館
●今野武雄著 「同         伊能忠敬」  同
●        「同          最上徳内」   同 
●        「同         松浦武四郎」 同
●照井壮助著 「天明蝦夷探検始末記」   八重岳書房
●        「日本史探訪8」         角川書店
●        「風土記日本6 北海道篇」 平凡社
●榎本守恵/君伊彦共著

         「県史シリーズ1 北海道の歴史と風土」山川出版社
●日本伝説拾遺会「日本の伝説1 北海道 東北」
                               教育図書出版/山田書院
●新谷 行著 「アイヌ民族抵抗史」     三一書房
●シーボルト  「日本」            雄松堂書店
●その他    百科辞典、蝦夷関係各種図説および古地図 等
 

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